Staffスタッフ

RELIVEの美容師は、薄毛などの毛髪の悩みを解決する専門家です。

栗田 卓弥(大宮店)
代表取締役

栗田 卓弥(大宮店)

Profile
美容師歴14年
生年月日 1987年9月11日
出身地埼玉県白岡市

皆さまのコンプレックスが解消し、これからの人生が豊かになるようにお手伝いさせていただきたいと思っています。

自己紹介

幼少時代

埼玉県白岡市の出身と書いていますが、埼玉県大宮市(現在はさいたま市)で生まれました。父は自営業で建設業を営んでいました。母は専業主婦をしながら、たまに父の仕事を手伝っていました。2歳上の兄がいて小さい頃はくっついて、よく面倒を見てもらっていた気がします。幼稚園の年少を大宮市で暮らし、その後父の仕事の関係で白岡町に引っ越しました。内気な性格でしたが、幼稚園の年中から母の勧めでサッカーを始め、それをきっかけに転入した幼稚園でも友達を作ることができました。

小学生になってもサッカークラブに入って、サッカーを続けていたこともあり運動することは割と得意な方でした。スポーツをすることで周りの友達の注目を集めたり、目立つことを意識し始めたのもこの頃です。習い事も習字、ピアノ、スイミングなどをしていたので、授業で発揮できる場面があると1番になることを常に意識していました。三年生くらいから母に言われて髪の毛を伸ばし始めるようになりました。長くし始めると女の子に間違われたり、珍しがられたりと注目を引くことができていたので、ロン毛を気に入っていました。床屋ではなく美容室に連れて行ってもらっていたので、この頃から美容師という職業にふれていて、意識し始めるようになりました。ポニーテールのように結んだり、ヘアバンドをしてサッカーをしてみたり、家にあるムースをつけてみたりとおしゃれをしたい感情が芽生えてきました。




学生時代

中学生になり少し校則の様なものがあり、長かった髪の毛を一度バッサリと短くしました。テレビではビューティフルライフというドラマがやっていて衝撃を受けたことを覚えています。ドラマの中で美容師が芸能人のように取り上げられて輝いている姿を見て、以前から興味のあった美容師という仕事を目指すことを決めました。いわゆるカリスマ美容師に憧れて美容師になったうちの1人です。自分で髪を切ってみたり、ワックスを使ったりと、どんどん髪型に対する興味が湧いてきました。中学校はもちろん染めたりすることはできないので、バレないくらいに『ミストで染まる』みたいなカラーをして楽しんでいました。

中学3年生になると進路を決めなくてはいけないので、本屋さんによく行き高校から入れる美容学校の高等科についてよく調べていました。いち早く美容師になって有名になりたいと思っていたので、専門学校がたくさん載っている本をワクワクしながら見ていたのを覚えています。しかし当時担任の先生に「高校は普通科にいって常識を学んだほうがいい」と言われ、迷いましたが普通科の高校に進学する事を決めました。高校選びも適当で、なるべく都心に近づきたいことと、勉強をなるべくしたくないという理由で大宮の高校に進学しました。

中学校を卒業してすぐに念願のカラーを初めてしました。いきなりブリーチした様な明るさに染めることができて、目立つだろうと思い無駄に外にでてカラーを楽しんでいました。高校の入学式の時も暗くしてしまうのがもったいなくて、黒のスプレーをしていきました。進学した高校は学力もあまり高くない高校だったので、入学式には明るい髪をしている人がちらほらいて、あまり自分が目立つことはありませんでした。

高校生になるとこの3年間は美容師になるための消化試合だと思っていたので、中学生まで続けていたサッカーをやめてバイトをしながら遊びに明け暮れていました。バイトの先輩や友達と遊ぶことが多く、良くも悪くもいろいろな遊びを経験させてもらいました。そういう面では1番楽しい時期を過ごせた気がします。その頃に出会った友達とは唯一今でも連絡を取っている友達です。とりあえず卒業できればいいと考えていたので、出席もギリギリ、成績もギリギリで高校生活を送っていました。三年生になりもちろん美容専門学校に進路を決めました。この時期はようやく美容学校に行けるという喜びが大きくて、高校の文化祭などのイベントを休んで学校見学を10校は行った気がします。最終的にはRELIVE代表の益満と考えは同じでだったようで、『日本』とつく日本美容専門学校を選びました。指定校推薦を取るために三年生の一学期だけは高校3年間の中で1番勉強を頑張り、無事推薦で入試を受けれることが決まりました。学校見学をしていたので、面接のコツなどを事前に聞いていて「硬くならずに自然体で行った方がいいよ」というアドバイスをいただいていた私は「敬語とかはそこそこで、友達と話す時の様に話そう」と決めて面接にのぞみました。「御校」「私」などの堅苦しい言葉は一切使わず、自然体でいきすぎた私は当然落ちてしまいます。不合格通知を見て落胆していましたが、その中に夜間部なら自動的に採用になることが書いてありました。そうして夜間部に進学することが決まりました。



専門学校時代

よくありがちな話ですが、美容学校に入って授業を受けてみると思っていたものとはかけ離れていて美容師になることのモチベーションはどんどん薄れていってしまいました。夜のアルバイトを始めたこともあり寝坊で遅刻は当たり前、テストも赤点ばっかりでした。同じクラスメイトだった益満はコンテストにでたり、成績も優秀で私とは真逆のような存在でした。友達と遊んでいた思い出は多くあり、今でも思い出すことがありますが、学んだ技術や知識などは何をやったかすら覚えていません。そんな学校生活を送っていたので気づいたら卒業間際になっていました。就職活動もせずに、卒業して1年くらいダラダラして美容師になろうと考えていたのですが、当然親や先生たちにも止められ仕方なく2月くらいから就職活動を始めました。あと2ヶ月で私の様な成績も出席率もよくない私を採用してくれる会社などほぼありませんでした。学校の紹介でここだったら面倒を見てくれるかもしれないと言われて行った会社に、どうにか採用していただきました。



アシスタント時代

東京都北区王子にある美容室で、そもそも王子には行ったことも聞いたこともない街でした。仕方なく就職した私は美容師のモチベーションなどほとんどなく、かなり生意気な新入社員でした。スタイリストになったら辞めて海外にいくとか訳の分からない事もよく言っていました。でも負けず嫌いな性格もあり一緒に入社した同期は6人いましたが、絶対に1番最初にスタイリストになるという気持ちが強かったです。この中の1人にRELIVEの七尾がいて、考え方が似ていて気があったのでよく飲みに行ってました。人一倍練習して、営業中もスタイリストの仕事を間近で見れるようにヘルプによく入り、他のスタッフがあまりやりたがらない場所の掃除など、店長や上司に気に入られるために頑張って仕事をしていました。次男という事もあってか先輩たちと仲良くすることが今までも多く、職場でも色んな先輩たちに面倒をみていただいていました。そうして自分の努力とタイミングが合って念願のスタイリストデビューを1番最初にすることができました。



スタイリスト時代

この時にはもう会社をやめて他の仕事をしたり、海外に留学するなどの気持ちは一切なくなっていました。どうしたらお客様を満足させられるか、会社に貢献できるかなどを考えて仕事をしていました。コンテストに参加したり、セミナーを受けたりと会社にも援助をしてもらいながら自己投資をし続けていました。ある程度経験を積んで、指名してくださるお客様もそこそこ増えてきたところで、会社は新店舗を出店することになりました。社長は私にチーフとして声をかけてくださり、店長と一緒に店舗を管理するポジションを与えてくれました。これをきっかけにマネジメントを勉強させていただいて、私もそういったものに興味を持ち始めました。美容室に来店してくださるお客様の為に自分は何ができるのか?働いているスタッフはどうすれば幸せな人生を送れるか?こんなことを日々考えて仕事をしていました。この時にはすでに益満から一緒にやろうと誘われていましたが、会社の状況や教え子がいたりと前向きには考えていませんでした。しかし、毎年何回か飲みに行って、お互いの価値観やこれからのことを話していました。今自分が出来ること、自分が作りあげていきたいことを実現するために退社することを決めました。13年間働かせていただいて成長させてくれたこの会社には感謝しかありません。



RELIVE



私の父は物心ついた時には髪が薄く、小さいながら自分も薄くなっていくのではないかと常に考えていました。25歳をすぎたあたりから髪質が細くなり頭頂部や生え際が薄くなり始めました。抜け毛が増えたり、ボリュームが出なくなってきたり年々悩みは増していました。このような悩みがあるため薄毛に悩むお客様が美容室に来店してくださると、濡れたままセット台に待機する時間が苦痛なことや、カウンセリングの際に悩みを打ち明けられないことなどか伝わってきます。美容室にはいろいろなお客様が来店するので、他のお客様との空間が苦手という方も多いと思います。そのような方でもここだったら予約してみようかな、また行ってみようかな、と少しでも前向きになっていただける場所を作っていきたいと思っています。そして薄毛によるコンプレックスが少しでも改善でき、これからの人生が豊かになるようにお手伝いさせていただきたいと思います。

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